「リズと青い鳥」省察(前編) ~リズは綾乃~

 小説版を読むのは次期映画を観終わってからにする、と言っていましたけど。やっぱりもう待ち切れん。読んでしまった。「リズと青い鳥」の、何が不可解に感じるのか気になって。答えが欲しくて。読んでしまった小説版。



俺には分かってしまったゼ。
「リズ」とは希美ではないし、みぞれでもない。
リズは綾乃。間違いない。

先に読んでおいて良かった。
なんかもう、次の映画はもう観なくていいんじゃないか、いやむしろ観ない方がいいんじゃないか、って気すらしてきた。何も知らずに、期待すればするほど、ガッカリ度が増してしまうから。

綾乃って新キャラ?
ではなく。著者の武田綾乃さんです。


監督の山田尚子さん、原作の武田綾乃さんのインタビュー。
両者の考えの差異を確認してみた。

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やっぱり山田さんはみぞれ、武田さんは希美に寄ってるんだな。
それぞれの作品を見て、そんな感じがしたけれど。


 山田さんは「今の北宇治高校吹奏楽部のメンバー」に準えるならば、きっと「みぞれ」的な人なんだろう。そういう自分の感性を大切にしている。だから希美にリズを投影して、どこまでも優しい存在であって欲しい、ずっと見守っていて欲しい、というような、そういう願いが、作品にもにじみ出ている。美しく、はかなげな表現として、描かれている。武田さんに対しても、きっとそういう想いがある。期待に応えたい。どうか見守っていて欲しい、と。まあ、映画監督と小説家ですし、元々距離があって関係性も薄いでしょうから、私が勝手にそこまで言っちゃうのは大げさか。
 
 一方の、武田さんの方は……やっぱり「今の北宇治」というくくりであれば、「希美」的な人なんだろうな、と勝手に想像している。で、そういう自身の感覚を、冷徹に突き放して描いている。


映画版で描かれていたように、
「希美がリズで、みぞれが青い鳥」である、とする、ならば。
「綾乃がリズで、尚子が青い鳥」って感じがした。

 リアル「リズと青い鳥」として眺めると、この断絶感がなあ。どこまでも皮肉だ。武田さんはこの状況を、冷徹に観察したり、或いは楽しむことすらできる、のだろうか。「理想的なリズ」であること、「希美」であることに、徹しようとしている感じはする。同じ「アーティスト」ではあっても、自分には映画のこともアニメ制作のことも分からないから。



 しかしこの原作で「みぞれと希美の物語」をやろうってのはチャレンジングだな。ストーリーラインが曖昧、韻文的になるのも当然か。そういうのが山田さんの真骨頂だということなら、いいんですけど。みぞれって存在感はあるけれど出番自体は少ないしなあ。でも、問題はそれだけじゃない。
 

 以前に書きましたが、1巻では久美子は「主人公」と言うよりも「狂言回し」でした。で、話が進むにつれて主人公っぽくなっていく。成長していく。そして今回からは明確に「久美子が主人公」になった。「波乱の第2楽章」では「久美子の物語」が徹底されている。リズと青い鳥のエピソードですらも。全ては久美子のために。

 関西大会を前にして、今年もまたみぞれと希美が不穏な空気を振りまいている、てのは昨年同様、っていうか更に一昨年前も希美が先輩とケンカして問題起こしてたって設定だったから、マジでトラブルメーカーなんだなコイツら毎年毎年呆れるほかない。


 久美子視点で描かれたこの問題を、みぞれに移してみる、みぞれ視点で映してみる、ってのはアリだとは思う。みぞれが、過去を、今を、超克していく物語ってのはあり得る。ただ、それだとね。2巻からの流れも含めて、本当にみぞれを支えているのは1にも2にも優子であって、3に久美子、4に新山先生、5に梨々花、ってくらいの重み付けになっていて、希美はむしろ「枷」。なんですが、それもみぞれが勝手にそう設定してしまっているだけで、具体的に何か希美が邪魔をしているわけでもない。みぞれ個人にとっては、確かに希美は「リズ」的な位置づけになっていくのですが。それはあくまでみぞれだけのものでしかない。

 ので、原作では必ずしも「リズ」は希美ではない。希美、優子、夏紀、麗奈、久美子から見たら、それぞれ、また違う解釈になる。前作から今作への流れで見れば、みぞれも希美も青い鳥で、この二人に対するリズはそれぞれ優子と夏紀、という解釈も成り立つ。久美子から見れば、みぞれ自身が「青い鳥」であると同時に「リズ」でもあって、自分で勝手に鳥カゴに閉じこもっている、ように見えたかもしれない。
 
 こういうの、つまり小説では、いつでも多面的多元的に描かれているんですが……「多元的」でありながら、各人物に紐付けて「一元的」「限定的」になってる。
 
 一つの世界でありながら、各各は断絶している。みぞれはα世界線、希美はβ世界線に生きている。優子はγ世界線、夏紀はδ世界線。そうやって、すれ違い、断絶、衝突を描いている。そして時に重なる世界線。久美子にはリーディングシュタイナーの能力があって!ってそれは違う話だ。まあとにかく、世界は一つの世界、ではあるけれど、でも人それぞれの世界解釈がある、ということを強く意識して描かれている。αβγΔの世界線が、久美子の視点・解釈で、断片的に描かれている。久美子には、みぞれの想いが理解しがたい。けれど、麗奈を相手にみぞれの感覚を追体験する。「あすかと香織」の間柄にも見いだすことが出来る。そういう瞬間がある。そんな「すべてを知るもの」たらんとする久美子のinfinity世界線。それを描くのが小説版の世界。


 映画ではα世界線だけが、みぞれの主観で描かれている。だけなら良かったんですが。みぞれにとって都合よく色々と改ざんされている気がしている。αを際立たせたから、βγδ世界線に歪みが生じている。消失している。元は久美子の物語なのに、「リズと青い鳥」で久美子を完全に排除してしまったのは本当に平気なのか?久美子の重要な役回りを、全て他のヤツらに割り振ってしまったじゃないか。これでは久美子のinfinity世界線が破綻してしまう。杞憂だろうか。そう思うのは私が武田さん贔屓で、俺が久美子だからだろうか。


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番宣でも出てくるこのシーンとか、武田さんはショックだったんじゃなかろうか。
なんで?なんで?なんで久美子がここにおるの……?あり得んわ……
 
お前こんなとこにおったらアカンやろボケアホンダラ!!

希美の世界線

 希美は内面に空虚さを抱えている。「楽天的で面倒見の良い、元気な女の子」を、演じているような感覚がある。そういう自分の振るまいは「ペルソナ」でしかない、上っ面だけで中身がない、ような感覚がある。ただし周りからは「演じている」とは認識されていない。希美を、みぞれも夏紀も久美子も「すごく良い人」と認識しているし、優子は「脳天気な奴」と思っている。それは全て希美の思惑通り。いや思惑ではないな。希美に何か下心や企みがあるわけではないから。「空虚さ」が「ある」。というか、つまり何もないというか。茫漠とした「空っぽ」が「ある」。言葉遊びみたい。

 希美の方は、そういう屈託を抱えている。ただ、この屈託は小説ではあまり描かれていない。プロローグとエピローグ部、短編で垣間見える程度。本編では断片的に久美子が認識するが、これも「ペルソナ」が垣間見えるだけで、内面の「空虚」にたどり着くことはない。希美の抱える屈託は最後まで明かされないし解決もしない。
 希美を真面目に描くなら「ペルソナ」ではなく「虚無」の方に取り組まねばならん、のですが、原作でやってない。そういうお話にしたくなかったから、でしょう。


 だから希美は、映画ではどうにも描きようが無いところがあった。ので希美をもっとちゃんと描け、っていう方が無理ある。ゆえにみぞれサイドにフォーカスした上で山田&京アニの絵力技で押し切って、名作風に仕上げてしまった感がある。あの辺が限界、というか十分に頑張ってるか。


かみ合わない、みぞれと希美。尚子と綾乃。アニメと小説。
そうしてそれぞれの世界線は続いていく。物語は続いていく。仕事は続いていく。

残件

 小説で希美があまりちゃんと描かれなかったのはなぜか、をやりましょうか。需要が無いのは分かってるんですが。私が書きたいので。もう一回ほどおつきあい下さいませ。