東田剛氏を偲んで(後編)
前回記事の続きです。未読の方はこちらです。
私が思うのは、東田氏の記事を書く原動力になっているのは「怒り」ではなかったか、ということです。怒りのエネルギーで記事を書いている。決して心底面白がって記事を書いたり、替え歌作ったりしていたわけでもなかったと思うのです。そりゃまあ、どうせ書くなら楽しんでやろう、読者にも楽しんで貰わなくちゃ、とは考えていたでしょうけど。
ただそのまま怒りを記事にぶつけてしまっても面白い記事にはならない。その怒りをエンターテインメントに昇華させることで、それが多くの人に支持された。ということなんじゃないかと思っています。
これ、基本的には私がやっていることと同じ。毎回ではないですけど。「経済学」の記事の時は完全にこれ。でも決してマネしてた訳でも無く。
記事を書くに当たって私自身、あまり怒りを隠そうとはしていませんね。やたらと「バカ」を連発。自説を証明・補強するニュース記事のリンクを貼り、バカすぎ、くだらない、という具合に評価する手法は東田氏譲りって感じが。意識はしていなかったんですが「バカ」とか書いているところまで同じだったんですね。
そりゃまあ、東田さんとは次元は違うのですけれど、同じようなテーマを扱い、同じように怒りを感じながら、同じような記事を書いていた、のかなあ、なんて思ったりしました。
どうでしょう。私の最近の記事読んでいて、「怒りすぎ」とか思ったりしませんでしたか。素直に、「なるほど」「面白かった」と思えましたでしょうか。記事として面白かったならばいいのですけれど。東田氏の記事が人気を博していたのだから、方向性としては決して悪くないはず、とは思っているのですが。
無闇に怒ってばかりでは問題だし、ここへ来てくれる人だって減ってしまうかもしれない。でも怒りを表明しなければ伝わらない事だってあるし、一概に悪いことだとは言えない。というより、時には必要なことなのだと思うのです。
振り返ってみると、私の性質として、やはり「怒り」のエネルギーで考えたり書いたりするのが、得意なんだなあ、という気がしてきました。以前の記事ではまあ、怒りのテンションそのまんまで書いて、翌日になってから冷静に見直すと、何じゃこりゃ?なんて思うこともあったのですが。
文章書くペースも非常に速いし、次々にアイデアが浮かんでくるし。読み返してみても、やっぱり迷いなく書いているし、まとまりもある(弊ブログ内で相対的に、という意味です)。
そう、前回記事では、迷いが生じてしまった、なんて書いていましたけど。今まさに、色々と迷い悩みつつ考えつつ、文を書いたり消したりしていたんですが。
そんなに迷ったり考えたりすることじゃあなかった、という気がしてきました。うん、これでいいんだ。たとえ怒りのエネルギーであっても、それで書くのが得意なら、それを生かして良い記事書けばいいじゃないか!
ということで自己完結しました。どうもお騒がせしました。
次回より 平壌 平常運転です。