合理主義者の非合理性について

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 当該ツイートだけじゃ状況や関係性もよく分からんしff外から喧嘩代行したってしょうがないしテーマからして僕が書くようなことじゃないんだけれども、まあたまにはいいかな。モヤっとしたまま脱線して違う話になって終わりますのでそこんとこよろしくね。本筋の議論とは考えるべき向きが違ってるかも。


 私は「保守主義」を標榜しているくせに実は大変な合理主義者でして、このケースではこのツイート主が「寝てはいけない」ということに合理性があるのかどうか、に強くこだわってしまう人間です。そうすると答えは簡単ですね。
 
 どうもこのツイートからすると、奥さんは自分が料理している時に「料理を手伝え」とか言っている訳ではなく「寝るな」とだけ言っているようだ。つまりこのご主人が本を読んでいようがゲームしていようがテレビを見ていようがスマホしていようが寝ていようが料理の進捗に直接的影響は全くない。ので、「寝てはいけない」ことに全く合理性は無い。こんなのは非合理的な精神論でしかないじゃないか。当事者になるとそのような具合に悶々と思い詰めて自家発電しまうタイプの人間です。


 私が10~20代の頃は特に、こういう合理性を欠いた指令には我慢がならず、しかし相手の立場や関係性によっては逆らうわけにはいきませんので大変でした。先輩とか上司とか先生とか。しかし世間にはこういう非合理が結構たくさんあるので、さすがに30代にもなると、こういうのが嫌いだという人に対して「まあまあ世の中そんなもんだよ」てな具合に人を諭す程度には大人になりました。


 とは言っても納得しているわけでもない。しょせん他人はコントロールできない、というだけのことなので。なので相手がこちらを「コントロールできた」と解釈されてしまうと、どんどんつけ上がられ関係は悪化していく。嫌いになっていく。下手に黙って妥協するのは問題の先送りでしかない。いったいどうすりゃいいのか。ゴメンナサイ分かりません。


 しかし、合理主義者ってのは、「精神論者が嫌い、非論理的でワガママで意味分からん」ってのは分かりやすい説明だとは思うけれど、でも、実は一つ気になっていることがあってね。自分は「合理主義」だと思っている人にちょっと考えて欲しいことがある。「合理主義」ってのも、実のところ相当に独りよがりだってこと。



 例えばだ。10両編成の列車に乗るとする。どこに乗るのが合理的だろうか。ある人は「降りる駅の階段付近、4号車がベストだ」という。またある人は「階段付近は混んでいてイヤだ、階段から遠い1号車なら座れる」と言う。またある人は「先頭車両は事故の時に死ぬリスクが高いからイヤだ」とか言う。各人の「合理性に基づくベストな選択」ってのは思いの外まちまちだ。

 そんなこんなで友人どうしで、どこに乗るかで言い争いしてたら「そんなくだらないことにエネルギーを使うのは無駄だ。どこだっていいだろう」という人がいたり。じゃあそいつが最も合理的だろうか。

 つまり、何が言いたいかというと「合理主義に基づくベストな選択」ってのは個人差が非常に大きく、結局所詮は個人のこだわり・わがままに過ぎなかったりする。同じ「合理主義者」同士であっても他者から見れば全く合理的でないことも多い。


 まあなんつーか、合理主義者は自身のこだわりが非常に強く表に出るが、その合理的帰結はパラダイムによって全く異なる。そしてその自身の合理的判断を理解できない者を無知だバカと考える。ので、他者から見ると、「合理主義者」とは実は最もワガママで協調性がなく自分勝手、精神論者よりもむしろ社会的には非合理の極みだったりする。のでよく孤立する。のかもしれないよ。


 「合理主義」を自認する人は、自身の客観的非合理性についてしっかりと目を向けてみた方がいいです。というのが私なりの合理主義への反省と保守主義への転向。

なんか、違う話になってしまってすみませんでした。