The Constitution of Liberty

前回の続きです。
fnoithunder.hatenablog.com

柴田英里さんのツイートの話ね。

 確かに「差別する自由はある」と仰っているが、これは自由主義の原理原則に、例えば「差別」を当てはめてみたら原理的に「そのように解釈される」というだけの話でしかないようだ。善悪を論じる気がないし論じていないし、その必要性すら感じていないのだろう。自由主義者にとって重要なのは、自由な表現が「法で規制されない」という一点のみにある。とにかく、何か問題があったからと言ってすぐに法規制をしてしまうのは、全体主義や恐怖政治の元であるので、断じてこれを許してはならない。
 
結局この人はそういう話がしたいのであって「差別の是非」を論じることには興味がない。

なぜなら

 自由主義の原則によれば、バカな差別主義者は批判され叩かれ炎上し傷つき淘汰されればいいのであって、憲法や法律でもって事前に食い止めるべきことではない。自由社会の言論・表現とは、信念と良心と道徳と文脈と歴史による自浄作用によって規制される。ハイエクはこれを「自生的秩序」と呼び、重要視しています。いわばアダム・スミスの言う「見えざる手」の作用です。断じて警察検察公安軍隊政治家官僚役人等の「国家権力の手」に渡してはならない。全ては「見えざる手」に委ねられるべきである。

 
 この原則を死守することで「寛容」が達成される。たかがツイッターとはいえ、柴田さんはちゃんとこの辺を説明しています。自由主義論者にとっては「差別の是非」などを個別に論じるのは意義が薄く、「原則としてダメっぽいと思う」ことであっても、一般論・原則論としてはとにかく、どこを切っても「表現を法で規制することは許さない」という話しか、彼らからは出てきません。彼らの言う自由とは「国家権力により規制されない」という意味だけです。

ハイエキアンにとっては「自由」が最も大事なのであって、言ってしまえば、「民主主義」や「人権」よりも「自由」が上位概念になります。彼らの話は必ずこの「原理原則」(General Principles) へと収束します。必ずです。

古典とは逆です!

 彼らの中には「古典自由主義」を自称する者がいますが、いくら何でもそれはおかしいでしょう。アンタらはneoであって古典(classical)ではない。もしかつてそのような自由状態が実在していたと言うなら、それは単なる無秩序でしかなかったはずだ。その自由が行政府によって守られていたことなど有り得ない。古典上には存在しない。つーか「行政府が自由を守るべき」という考え方は何か権力構造的に矛盾してない?と思っているのだけれど……今はやめておきましょう。私が勉強不足なだけかもしれない。


 んで、その古典自由主義の始祖の一人としてエドマンド・バークが上げられたりする。彼は確かに「自由は大事だ」と言っている。だがバークは、自由とは、歴史と伝統、道徳と慣習により守られる、というか事実上制限されると明言している。大事なことなのでもう一度。イギリスの歴史と伝統と道徳と慣習に、自由が内包されている、と言っている。ので、自由は「イギリスの伝統」の下位概念に当たる。ハイエクとは逆なんだよ逆。

自由よりも、伝統や道徳概念の方が先立っているのです。アプローチが逆。非常に重要な論点です。バークがclassicならハイエクはneoです。


バーク:イギリスの文化歴史伝統道徳慣習の中に自由が含まれている。

ハイエク:自由>>>>>越えられない壁>自生的秩序>越えられない壁>国家権力


 あああそうだ、やまもといちろうという人が「バーク主義者」を自称しているようですが、バーク読んだことがあるとはとても信じられません。アレのどこがバーキアンやねんええかげんにせえや。


脱線しましたすみません。


 柴田さんの話は、筋は通っている。とは思う。でもやっぱり一般論、現実論として、社会に当てはめて考えると重大な問題が発生している。

 彼らはいつも必ず「自由は大事だ。何より大事だ。国家権力の横暴を許すな」に行き着いてしまう。すぐに「原理原則」(General Principles) を持ち出し、これに従わねばならない、死守せねばならない、となってしまう。「自生的秩序」は大事だと言っているくせに、それ自体には興味がない、論じる前に疲弊したり興味を失ったりしている。とにかく自由だ、自由が大事だ、という話が最優先されてしまい、結局は歴史や伝統、道徳の大切さを論じることができない。ばかりか、重要な自生的秩序が分からずに破壊すらしてしまう。本当に大切なものを忘れてしまっている、ことに気付かない。今の日本が典型的である。

 民族の知恵・文化ってのは歴史と伝統に蓄積されているものであって、そこから道徳が生み出され社会が成立する。のに、それをおざなりにして、「自由が大事だ自由が大事だ自由が大事だ大事だから三度言ってみた」みたいなことをやっている。


 二千年に及ぶ日本の歴史。或いは百数十年に渡って積み上げてきた国民国家としての、日本独自の「自生的秩序」。これをアメリカに、非関税障壁だ、偽物の資本主義だ、日本はアンフェアだと言われて、どんどん破壊してしまう。工夫と努力により培われてきた慣習や制度を「既得権益」だの「岩盤規制」だのと言って次々と破壊してしまう。自由は大事だと言って開放経済をどんどん進め、地方は破壊され衰退し放題。確かに「自生的秩序」も大事だがしかしまあ、勝手に自生するから「自生的」なのであって、もしこれを政府が守ってしまったらそれは「自生的」じゃなくなる。だから、絶対に政府は日本の伝統的秩序を守ってはいけない。それは「自由主義」の「原理原則」に違反するぅ!!だから政府は日本人達を守ってはいけないのだ!あいつらは非関税障壁だ!既得権者だ!アンフェアなのだああぁぁぁ!政府は人々の「自由」だけを守っていればいいのだ。自由をどんどん推し進めさえすれば全てがうまくいくのだ。


 何だかバカみたいな書き方してますが、本当にこの30年ずっと日本はこの原理原則でやってるんですよ。日本の文化伝統道徳慣習を、非関税障壁既得権益だと、そう言っているのは「自由主義者」なんですよ。日本が自由主義の「原理原則」に拘束された自由原理主義者達により運営されている、と思っている人はほとんどいないと思うけれど。政治家もそんなつもりでもないんだろうけれど。でも自由主義の原理原則に則って運営されているんだよ。

みんな自由や平等が好きなんだろ?アメリカンが好きなんだろ?アンフェアは許せないだろ?


 これは別に小泉や安倍だけが悪いのではない。竹中平蔵大田弘子や伊東元重や原田泰や浜田師匠や岩田副総裁が悪いわけでもない。全てはネオリベラルの教条に従っているだけだ。本場アメリカの、ハーバードやイェールで、自由主義を本格的に学んだ人たちが安倍政権の中枢で自由主義を実践している。竹中大田原田岩田黒田浜田のような、ネオリベラル最前線の学者さんを全面的に活用しているんだから、自由主義者が安倍政権を批判するのって凄く違和感あるのよ。安倍さんはネオリベとして日本最強の政治家でしょ。


 日本の文化や道徳、慣習、社会を破壊し、格差や貧困を生み出しているのは、「アベ」ではなくて、「自由」ではありませんか?そんなことは有り得ないですか?自由の原理原則を守ることは本当に正しいのことでしょうか。よく考えてみて欲しいのです。



 私には「政府が自由に介入すると全体主義に陥る!」というのは、「日銀の独立性が損なわれるとハイパーインフレになる!」くらいの意味合いにしか感じられません。自由の教条・原理原則を守ることが国民の幸せにつながるとは、到底信じられません。不幸が加速しているとしか思えません。あなた方が自由の「原理原則」に固執するのは、なぜでしょうか。




 ああ、あともう一つやりたいんだ。でも1記事1イシュー原則とすると今回はもうやめるか。

 この間も書いたけれど、これはプロテスタント教条に従った、実質的には宗教であるがゆえ、クソ真面目なヤツほど自由の「原理主義」に陥るのだ、というあたり。青山シゲさんとかね。「市場原理主義」も同じ。元は宗教であることをもう少しみんな意識しろよっていう。宗教原理に対してあまりにも無警戒だから、寛容のつもりで不寛容に陥ってるんだよ。気が向いたら次回にやるかも。(飽きてやめるかも)


自由の条件I ハイエク全集 1-5 【新版】

自由の条件I ハイエク全集 1-5 【新版】