死の深淵の向こう側
大仰なタイトルだが大した意味はねえ。
そんなところには逝ったこともねえし。
(※今回はとても悪趣味な記事です)
チェコの人の記事が燃えてた。ブロガー優等生っぽい人と思っていたのでこの記事は意外だった。私にとっては読んで不協和を感じるイヤな記事だった。こんなん燃えるやろ、人気ブロガーがこんなん上げて平気なんか?なんで……?
翌日になって派手に燃えているのを確認して、自分の感覚は真っ当だったんだなと少し安心していた。8割方が否定的なコメント、はてブばかりでなくツイッターtogetterでも叩かれていた。この数日できっと10万PVとかいってそうだし、さすがに気の毒になってきた。直リンクやコールはやめておこう。
やっぱ自死とミソジニーネタは異様なほどに可燃性が高い。なのに、なんせ自殺者に駄目出しするようなエントリになっているので大変にリスキーで、(恐らく)ご本人的には、自覚的にメタ視点を持って書いたつもりだったんだろうけれど。全然駄目だ。なんであんな不用意なエントリ上げちゃったんだろう。炎上芸からは最も縁遠いはずの、あの人気ブロガーが、いったいなぜ……?(私の勝手な想像です)
なぜ、燃えて当たり前のようなエントリを、そうとは気付けずに上げてしまったのだろう。とにかくそこが不思議でならなかった。気になって仕方がなかった。ずっとそういう目線でこの炎上劇を追いかけていた。
関連記事やまとめなんかを追っていると、元ネタになっていた自殺ブロガーにたどり着くのは簡単だった。公開されているものだし、リンク張っても構わんよな。
http://blog.livedoor.jp/zar2012/
これを読んでみたら、なんだかチェコさんの想像を、私も少しは想像できたような気がした。(私の勝手な想像です)
ブログは2012年10月で終わっている。3年あまり続いていて、更新頻度は2日で1記事くらい、ラストエントリの段階で筆者は36歳。私が読んだのは主にラストの数ヶ月。おそらく本当に自殺したんだろうと思った。
予想外だったのは、なんと「最後の晩餐」がハンバーグじゃない!!
記憶違い?フェイク入れたつもり?いや自説誘導のためか?
(最後の晩餐以外の内容はほぼ一致しているのでブログはこれであってると思う)
最後の晩餐はステーキなのだ。
ストーリー立て自体が改変されているのか。
まあ、それはともかく、だな。
死の前日エントリから。
折角だから死ぬ前に豪勢なものを食べようと思い立つ。
でも1800円のサーロインステーキが精神的に限界。
高級料理店なんて店に入っただけで食欲がゼロになりそう。
わざわざ高級料理店なんて行く気になれない、という。
他のエントリ読んでみてもそうなんだけれど、自死を目前に控えた彼の感覚について、ブックマーカーやツイッタラー達の想像力はかなり精度が高い。的を射ている。ゆえにその感覚から乖離したチェコさんの自説に、大きな不協和が生じてしまった。
しかし、ここで重要なのは、チェコさんだってこのブログを読んでいるわけなので、つまり、そんなことは百も承知の上で、それでも、敢えて、あれを書いていたんだということ。しかし、それが全く伝わらなかった。自己都合でリンクを張らなかったのが決定的なミステイクだ。さすれば、黙って生暖かく見守っていられた人も多かったんじゃないかな。結局は「死」から目を背けてしまっているんだよチェコさんは。
チェコさんのところにも書いてあるけれど、当該ブログの記事を読む限りでは、筆者の日常は割と穏やかで、「自殺準備中」と知らなければ、概ねただ日常を綴っただけの普通の日記にしか見えない。しょっちゅう旅行とかにも出かけているし、引き籠もりともちょっと違う。しかし、時折綴られる、現実世界への挫折と失望、死への願望と恐怖、生への未練。
このブログ、結構引き込まれるものがあるね。全く特別じゃない、ありふれた人生。自分の方が、ほんの少しだけ運が良かっただけかもしれない。或いは単に、自分は死の恐怖を乗り越えようとしていないだけであって、それ以外は彼と何ら変わらないのかもしれない。この、死とは日常と隣り合わせであって、緩やかに、我々は絶えず死に向かって進んでいる、という感覚は、死をリアルに意識したことのある者にとっては、老若男女問わずごく普通のことと思う。常日頃、意識するようなことではないし、意識しないように封じ込めている感覚かもしれない。でも明らかに存在するものだ。
例えば50歳まで、大した成功もなく、とりあえず生き続けてしまった人間なら、つまり大概の老人なら、多かれ少なかれ分かる感覚なんじゃないかなあ。生き様と死に様は全く同じ意味だというような。いや俺はまだ50には届いていないが。まあ、早熟な方であれば20代でも分かることだろうし、或いは、たとえ70歳になってさえも直視することができない、という人だっているだろう。