哲学しようぜ
うちみたいな過疎地でやるのもどうなんだ?却って客が減るぞって気もしますけど。にもかかわらず、小難しい感じに書こうと思います。
ルネッサンス以降の「神なき時代」に模索され続けた信仰の対象。「神」に取って代わる、新しい現代の「信仰」対象は二つ。それはプログレッシヴィズム(進歩主義)とヒューマニズム(人間主義)。それぞれ、18世紀の「産業革命」「フランス革命」あたりから確立されてきたものです。
考えてみると結構凄い。神の代わりが「科学」、神の代わりが「人間」か。なかなかの驕り高ぶりっぷりです。
特にこの「進歩主義」に意義を唱えているのがいわゆるはてなの「ミニマリスト」さん達なのでしょう。それ自体は間違っていないと思います。本当に進歩主義は素晴らしいのか、絶対なのか。甚だ疑問だ、というのは確かにその通り。
ただまあ、その発想自体は別になんも目新しいことはなく、あざなわさんのおっしゃっているとおり。17世紀のルネ・デカルトも苦笑いって感じでしょう。
ただ無闇に進歩主義を否定されても「アンチ」は所詮アンチ。対案でもなんでもないし、「アンチ」それ自体がアイデンティティとして成立するわけもない。まあ別に対案を示す必要はありませんけど。
確かに「進歩主義信仰のおかしさ」自体に全く気付いていない人ってのも結構いるけどさ。
自分なりに道を模索・追求されるのは結構ですが、単なる「敵方バッシング」や「アンチ行動」だけでは安息の地は見つからないのではないかと。悲しいカナリア ( © fujipon先生) だぜ!
※)「カナリア」とは「人柱」みたいなニュアンスです
おまけ
ヒューマニズムの方。こっちも凄いよね。上のミニマリストさんはこれを信仰してるように見えましたがどうなのかな。神に取って代わって人間が最もエライっていう発想。そもそもは「ピューリタニズム」と言った方が適切なのかな。基本的人権の尊重が絶対。日本に定着してしまったのは、このピューリタニズムから聖書を取っ払ってしまった感じの、非常に空っぽな、ものすごい人工的思想でありながら、であるがゆえにとてもケモノ的なものにもなってしまうという、なんともパラドキシカルな思想。モンスター〇〇なんかはヒューマニズム由来ですね。いばやの人とかマジやばい。私のような軟弱ゥ者には空恐ろしくて、なにがなんだかよく分からない。
こちらもある意味「カナリア」なのかな。
さらに「進歩主義」と「人間主義」双方完全肯定で、個々人が効用最大化を目指し「効用関数」に従って生きるのが素晴らしいのだっ!なんて、とても人工的に個人主義完全肯定を標榜している人気はてなブログもありますし。(デマ恋?)
病んでるかな現代日本。
デカルトのスタンスでちゃんと哲学やってるブログだってあるし、面白いし勉強になります!なのですが、やはり答えは見つからず、我々は「ニヒリズム」に陥らざるを得ない、のだろうか。所詮世の中そんなものなのかもしれないと。
やっぱり日本はこの、18世紀に西洋で編み出された二つの思想に、変な形で囚われてしまっているんだなあと、あらためて、つくづく思います。もうそんなの当たり前すぎて、疑問に思うことすら無くなっている、というほどに定着してしまっているというか、囚われてしまっている、というか。
で、なんか思い出してしまったのが、3月頃にあった「ルミネ騒動」。典型的なヒューマニズム思想由来の「はてな村抗争」でした。あれ、もの凄くピューリタニズムに囚われた抗争に、私には思えました。
ご存じの方もいらっしゃると思いますが、これ結局、詳細は省きますけど、最終的に「般若心経」で締められました。つまり、東洋哲学が提示されていたんですね。当時はよく分かっていませんでしたけど、なんだか今更ながらですが、オラとっても意義深い気がしてきたぞ。
「諸行無常」という東洋哲学の虚無感ってのは、東洋哲学独特のものであって、西洋哲学由来、人間主義絶対信仰から生じてしまう「ニヒリズム」とは全く違う。
その他にも、はてなブログには日本的なアニミズムについて触れている人もいらっしゃいますし。この辺も色々と勉強させて頂こう。
アイデンティティを模索するなら、単なるアンチ行動ではなくちゃんと哲学しようぜ!デカルト以来のニヒリズムに対する何らかの答えが、東洋哲学にはあるのかもしれないよ。
色々と深読みしすぎかも知れませんが。それがアウフヘーベンってヤツですよ。
いやいや、はてなブログも捨てたもんじゃないな。
※参考書籍
- 作者: 佐伯啓思
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2014/11/06
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (1件) を見る