リベラルとはなんなんだろうか

 言葉の定義があいまいだ。たとえ「同じ言葉」でも、時代や世代や文脈や言及対象によって意味合いが微妙に変わってくることもある。前回記事の「保守」とか「リベラル」とか「互助会」とかにしても、人と同じ言葉を使っていながら、なんだかズレた話になっていたりしてるかもしれない。


 言葉のズレといえば特に政治関係はひどい。「構造改革」だの「革命」だの、かつては共産党の専売特許だった言葉を、今では「保守政治家」の代表格、とされる安倍首相が連呼しているってのはどういうことなんだ。彼は左翼なのだろうか。

 或いは「希望の党」を立ち上げた小池百合子さん。希望の党は「寛容な改革保守」って言ってたけど。「寛容な・改革・保守」ってことは「中道な・左翼的・右翼」だろうか?「しがらみのない政治を」って「政治的でない政治を」ってこと?

 日本語として成立してないしwというか、ギャグで言ってるんでないなら、ちゃんと意味を説明して欲しいのだ。なんでこんなとんちんかんな言葉遣いなのにマスコミはツッコまないんだろう。嘆かわしい限りだ。言葉が意味を持たない。力を失っている。

 「立憲民主党」の枝野代表によれば「安倍首相は全然保守じゃないし、むしろ私の方が保守だし」だそうだ。演説をよく聴いてみるとたしかに彼は「保守主義の元祖」である、エドマンド・バークを理解しているようなので驚いた。そんな政治家は初めて見たよ。だが同党の面々はそんなの知ったこっちゃないだろうし、あくまで枝野氏の個人レベルの認識であって、同党の基本的な考えなのかは相当にあやしい。「リベラル派の最後の砦」みたいな立場の人がこんなこと言ってていいの?って気もするし。


 この辺の「言葉の大混乱」について。先般の衆院選に伴って、ようやくもって「リベラル」とか「保守」の「言葉の定義」について、なんかおかしいじゃないかってんで、議論が出てきたのは絶望の中の光明ではあった。三浦瑠麗さんとか中島岳志さんとか。特に中島さんの「俺はリベラル保守だ」という話はなかなか面白い。「消極的自由」と「積極的自由」のジレンマの話とか、ぜひ読んでみてください。で、彼によれば「リベラル」と「保守」は相性が良いのだそうだ。


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 彼の言うとおりだとするならば、私が「俺はリベラルじゃない、保守だ!」と言い張ったところで、客観的に見たら「いやアンタはリベラルだよ」ってことになるのかもしれない。或いは、次元が違うけれど、現代自由主義最大のイデオローグであるハイエクにしても、彼を保守と言う人が多いのに対して「俺は保守じゃない、リベラルだ!」と言い張っていたそうだけれど、やっぱり彼も「保守」なのかもしれない。西部邁氏はそんな彼を「隠れ保守」だとか言っているし。


 この中嶋さんの話はツッコミ所がいくつかあるのだけれど、今回はリベラルの起源について、ってこでウェストファリア条約の話をしておきましょうか。ウチでもよく出てくるし。中島さんはこれを「個人の内面的な価値観の自由」としての「リベラリズム」の起源とされていますが。私の解釈とは違う。


 まず大前提として、中島さんも認識されていることですが、この文脈で出てくる「リベラル」は、現代の「リベラル」とは全く意味が違います。今の「リベラル」は、ソビエト連邦が崩壊した後、寄る辺を失った左翼連中が、なぜだか「リベラル」を自称し始めたことで、1990年代中盤頃から大きく意味が変質していきました。特に日本で顕著ですが、欧米も同様の傾向があるようです。私が若い頃は「リベラル」とは「形式にとらわれない、穏健な自由主義者」くらいの意味で「左翼」とは無縁のはずでした。ので、ここんとこよろしくね。




 ではここから本題。中島さんの仰るとおりで、いわゆる「30年戦争」の反省としての「ウェストファリア条約」が「リベラル思想」の起源だ、というのはその通りと思います。ただしこれはあくまで国家間レベルの「消極的自由」に限定されるものです。この頃はまだ「国民」とか「国家」という意識はあんまりなかったようですけど。



 当時は、カトリックVSプロテスタント宗教戦争が延々と続いた時代。カトリック達は「プロテスタントどもは怪しげな新興宗教ばかり、神に逆らう不届き者」とみなし、逆にプロテスタント達は「カトリックどもは、既得権益にしがみつく、汚職と腐敗にまみれたクズども」とみなし、互いに「自分らこそが正しいのだ」と30年も争い続けていた。血みどろの戦乱に疲れ果て、ようやく確立されたのがウェストファリア講和条約です。異教徒、異民族、異国民を、悪魔呼ばわりし、攻撃し虐殺し、というの、もうやめよう。


 「民族自決権」が確立されたということです。これを中島氏は「寛容の精神」と言っていますが、少なくともこれは「ウチはウチ、ヨソはヨソ」を徹底する、ヨソには干渉しない、という約束です。カトリックなら、異教徒だからってプロテスタントユダヤ教徒、イスラミックなんかを殺さない。ウェールズ人だったら、相手がヨソ者のスコティッシュだからって殴らない、とかそういう話。「寛容の精神で、異教徒や異民族を受け入れよう」ではありません。「ヨソの団体に関わってはいけません。それがお互いのためです」ということです。


 「外」に対して自分たちの宗教や道徳、価値観を押しつけない、というのが「リベラリズム」の元祖です。ので「内」に対しては当然、自分らの伝統的価値観を守っていこうとします。言い換えれば「内」の人の「個」は、尊重されるとは限りません。伝統の中に個人の自由が組み込まれているかどうかは、それぞれの団体次第です。各各の宗教、民族、国、地域に、各各なりの道徳、文化、教義があります、ので、それぞれ内側に限定して、自分たちの中だけで勝手にやれと。


 「外」に対してのリベラル(不干渉)、「内」に対してのコンサバティブ(保守)の徹底。内と外、二つの軸に分けてやっていこうと。自分らの「保守」を持ち出して「外」を変えようとするのは「保守」じゃない。「侵略」である。
 
「侵略」ダメ!絶対!!
 
 というものであって、現代において「尊重すべき」とされる、個人の尊厳とかの「リベラル(自由)」とは違う文脈の話です。ハイエクだって「伝統的規範を守るのは大事だ」と言っています。ウェストファリアの文脈を「個人」に当てはめる、という考え方は、少なくともハイエクにはありませんし、むしろそれは違う、と言うのではないでしょうか。


じゃあ個人の「リベラル」はどうなっているの?どこからきたの?
ハイエクって個人的な自由主義の元祖だったんじゃないの?

ここらが難しいところでして。


ハイエクは敬虔なプロテスタントだったようで、その精神のありかたを哲学的に深く探究されていたようです。プロテスタントの伝統精神を探究し明らかにする、という、宗教的文脈において彼は「保守」だったのかな、と思います。

 雑な話になるけれどプロテスタントってのは元々、各個人がクソまじめに生き、自立し、そして神と等しくなれることを目指すような、厳格な修行僧、みたいなところがあった。だから禁酒法とかもやっちゃったんだけど。ゆえに個々人の尊厳、自立の精神が大切になる。

 これらはキリスト教、とくにプロテスタント教義の影響が大きいのです。前にもどっかで書いた気がしてきたが、このプロテスタント教義を取っ払った、無機質な「自由」の部分だけをまねたのが、日本で流行ってる、アメリカ由来とされる個人主義のたぐいね。宗教的神秘性や道徳など理解せず、ただ上っ面をまねているだけなので、みんな空っぽになって、だから心の病に冒される、みたいなね。これは書きすぎか。なんか違う話だな。しまった。


 とにかく、現代の個人レベルの「消極的自由」の起源は、主にキリスト教、特にプロテスタントの教えに内包されていたものではないか、ということです。しかし、ではなぜプロテスタント教義だった価値観が、世界普遍の扱いになってしまったのか。



アメリカが台頭するようになったとき。
つまり、第一次世界大戦のあたりで、ウェストファリア体制は破壊されてしまった、ということです。悪魔は退治され、敗者は改宗されねばならない。という、クルセイダーの世界に、戻ってしまった。
アメリカに逆らうヤツは悪魔だ。日本、ドイツ、ベトナムキューバソビエトイスラム世界、北鮮、などなどなど。


 少なくともアメリカは20世紀以降、ウェストファリアの思想をまったく守っていません。個人の「消極的自由」を普遍化、一般化、世俗化し、世界化するのが、彼らが創り上げた理想郷であるアメリカの役目、世界を変えるのがアメリカの役目、となってしまったところに、20世紀以降、現代世界の悲劇がある。


「自由」の伝道師として「消極的自由」を「積極的」に、「強硬」に世界に広める、という、アメリカンパラドクス。



ここで、そもそもが、なんですよ。


 冒頭で出てきた30年戦争。当時「怪しげな新興宗教」として迫害されたプロテスタントの多くが、結局は旧大陸ヨーロッパを捨てて新天地を求め、新大陸アメリカへ渡ったわけですよ。カトリック勢力は、お前らは新天地へ行けよ!と、どんどんプロテスタントを追い出した。これ幸いとばかりに、危なっかしい新興宗教勢力の、厄介払いの「はけ口」としてアメリカを利用した、という面も、多々あるのですよ。

 おかげでヨーロッパの主流はカトリックのままとなり、ウェストファリア体制での平和が訪れたわけですが。300年近くたって、その厄介払いしたはずの連中は、彼らだけの理想郷を創り、世界帝国となって、逆襲してきたのです。彼らの正義である、消極的自由を、積極的に世界へ広めるために!



※参考文献

自滅するアメリカ帝国―日本よ、独立せよ (文春新書)

自滅するアメリカ帝国―日本よ、独立せよ (文春新書)