薄っぺらい記事

 言及するせざるにかかわらず、特定のどなたかをDisるような動機でブログ記事を書くとその分、なにか業のようなものをを背負わなければならなくなる気がしました。お気づきの方もいらっしゃろうかとは思いますが最近何度か、有名な某はてなブロガーさんの記事を意識して書いていました。

 自分の中で葛藤やらもやもやが生じてしまいましたが、おかげさまで?ほんの少しだけ、何かが見えたような気がしました。

我思う、ゆえに我あり

 近現代ヨーロッパ哲学の父、とも言うべきデカルトの有名な言葉。ごく簡単に言ってしまえば、「確かなものなど何もない。本当に確かなものは、自分の心にしか存在し得ないのではないか。自分が考え、疑問に感じたりしていることだけは、今、確かにここに存在している」

 というのが出発点にあります。欧州由来のピューリタニズム、徹底した個人主義自由主義、自然科学などに対する探求心は、往々にしてベースにデカルト哲学があります。
 まずは個々人の独立を重んじ、自立した自由な個人があって、そしてその連帯としての社会がある、という考え方が基本。(だと思う)


こういうスタンスだった人、はてなでは真山秋春さん(id:yama-aki1025)がいました。残念ながらもうブログは残っていませんけれど。彼の書いた記事で、


「例えば1+1=2である、というのは常識とされているけれど、本当にそうなのだろうか。ある人にとっては3かも知れないし、時と場合によっては4ということもあるかもしれない。そういうことは考えられないのだろうか。本当に1+1=2なのだろうか」

 というようなことを記事に書いていたことがありました。これはデカルト哲学の典型的な基本中の基本の考え方と言えるでしょう。ご本人としては例え話としてはイマイチな気がしていて、伝わりづらさにもどかしさを感じていたようです。

 で、実際に誰かが具体的にブログにこういったような「これこれこういう訳で、僕の考えでは1+1=3だと思うんだけど」みたいなブログ記事を書いたとする。すると書きようによっては、

「1+1=2に決まってんだろボケが」
「ここにスゴイ馬鹿がいるぞwww」
「なんて非常識な奴だふざけんなしね」

みたいなブクマが大量についたり、「1+1はなぜ2なのか」について理路整然と解説し1+1=3を完全論破するような批判記事が上がったりする。そうやって炎上騒ぎ、お祭り騒ぎになる。「はてな」とはそんなところだ。

 そんな様子を見て真山さんは、
 「どうしてみんな1+1=3だと考えてみた、彼の思いを尊重できないのか。話を聞いてあげられないのか。どうして伝わらないのか。反論してる奴らはなにを確信しているのか。そんな誰しもが認めるような確かなものなど存在するのか。本当に分かっているのか」

というような、歯痒さやもどかしさ、苛立ちがあったようです。真山さんはそんなはてなに挫折を感じ、ブログを終わりにされました。(ということだったと思う)


 たとえ仮にデカルトを知らなかったとしても、本質的にそういう感覚の人は存在する。デカルト哲学にシンパシーを感じる人がどのくらい存在するのかは分からないけど、きっと10%以下なんだろうとは思う。そんな悩みの中で実際にデカルトを知り、デカルト哲学とは何なのかを探求し、神髄を知ろうとする奇特な輩となると、0.1%以下なんじゃないかなあ。



 その他の90%以上の人は「1+1=3かもしれないよ」と言われてもなんのこっちゃよくわからず、はあ?なに言ってんの?そんなことより野球やろうぜ!みたいな。多くの人は共感もできないしあんまり興味も持てない。


 だから「デカルト哲学者」からすると周りの人達が、確かなものなどありもしない世界なのに、たいした悩みもなく生きているように見える。なんの疑問も持たず「1+1=2」を信じている。それが不思議でならない。「1+1=3かもしれないよ」なんて話は全く通じず却下され、ただ疎外感を感じるばかり。人は結局わかり合うことなど出来ないのか、と苦悩する。



翻って。

全く逆の人がいる。単に興味ない、知らん、ではなく。
デカルト哲学のアイデアに「根源的な疑問」を感じる人。


我思う、ゆえに我あり


というのは間違っているんじゃないのか?と逆の疑問を持つ人。こういう人も実はやっぱり10%以下だと思う。それはいったいどういう事なのか、を具体的に探求しようとする奇特な輩はやはり0.1%以下ではないだろうか。僕のことだよ。



 僕は今まさに「我思うこと、考えたこと」を、ここにつらつらと書き連ねている。この文章は僕の中で「僕の存在」を証明できているだろうか。この文章をもって「ゆえに我あり」と言えるだろうか。


 ここに書かれているのは見ての通り「日本語」だ。僕は日本語で考え、話し、記述する。それはたまたま僕が、この時代に、この地に生まれ、ここで育ったからだ。僕の頭の中は「日本語」で出来ている。しかし「日本語」とは僕の中にあったものではない。親、地域、学校、から教わったもの、或いは「否応なく」伝承されてしまったもの。明らかに外部から入ってきたもの。

 日本語がなければ、僕は具体的に「思う」ことも「考える」ことも「書く」こともできない。ゆえに他者から自分に入ってきた、継承されたアイテムである「言語」を用いて「我思う」ことでは、僕の存在を証明できていない。そしてこの文章を読んでいるあなたは、ここに何が書いてあるのかを読み取ることが出来る。僕の意図を正確無比に把握することは不可能なはずだが、そもそもこの文章自体が僕を証明できていないのだから当たり前だ。この文章は少なくとも、僕だけのものではないのだ。


これはいったい何だ。



これを「はてな風」に言ってしまうと「我思う、ゆえにコンテクストあり」ということになる。


よくはてなでは「コンテクストガー」とか言って(嘆いて)いる人がいますね。彼らの言う「コンテクスト」の最たるものは日本語です。

 「我思う」事で「個人」の存在を証明することなどできない。個人の存在そのものには、なんの「意味」も「価値」もない。個人とは空っぽなのだ。あるのはただひたすら伝承され続けていくコンテクストのみ。優れた、正しいコンテクストのみが伝承され、生き残り、更新され続けていく、と考える。ただしそれは、あくまで現時点で最もマシだ、というだけのものかも知れないけれど。それがクソだというなら現時点の人類などその程度だということだ。それ以上でも以下でもない。


 言語とはそもそも仲間同士でコミュニケーションを取るために発祥し発達したもの。つまり「言語」とはまず「社会」ありきなのだ。「社会」なくして「言語」は存在し得ない。「我思う」だけの中に存在することが出来ないのだ。言語とはあなたに伝承されたコンテクストである。


 ゆえにまず社会ありき、その中で個人が生かされるための自由が大事である。他者の承認を得られない、後世に伝承できない、社会的な意味を見出せないなら、個人の自由に意味など無い。


とまあ、「コンテクストガー」とか言ってる「老害」はそんな感じ。
なんかイマイチだが、あんまり時間が取れないので、今日はこんなもんで。


※ 関連記事。真山さんとの思い出。
fnoithunder.hatenablog.com