「ちゅういけっかん・たどうせいしょうがい」のひとへ

 この話は自分語りをせにゃならんので俺がやってもろくな事にはならなそうだけれど。もう少しだけやっておく。「ADHDASDは生殖するな」とか、自分のDV毒親を持ち出して言う人まで出てきたし。スゲーな。ぼーっと読んでるとなんとなく説得力あるような錯覚に陥るし。恐ろしい恐ろしい。そりゃお前んちの話だしADHDASDに限った話じゃないし。


 確かに遺伝らしいが病質遺伝要素なんて他にいくらでもあるし、各種遺伝パラメータになにか問題が見つかったヤツは生殖禁止か。アホらしい、なんてのは分かってて、それでも書かずにはいられなかったんだろうけれど。なんだかな。

 それに俺の場合は三人兄弟でも先天的に極端に酷いの俺だけだし。弟なんか明らかに普通の人だし(でも普通ってなんだろ)。親は、まあ、なんだ。片方ASD要素はありそうだとは思うが、ADHDはよく分からん。昭和10年代生まれなので彼らの中にはそんな障害やら病気やらは存在しない。そんな程度の話だ。

 親への恨み辛みをここで言っても仕方がない。いやしかし左利き矯正は本当にトコトンマジ馬鹿だぞ。右手がヘンなの分かってて、しかも二人いてなんでこうなった。マジでバカだ。などと言っても本当に詮ないな。親の悪口書いてると反論コメを封じる効果はあるけれど。本人に言ったら悲しい顔をされたよ。


 DVってのは核家族制度の弱点と言えばその通りだが、別に行政指導や設計で核家族になったわけじゃなし。日本列島に在住し繁殖した大衆が勝手にそうなっただけだ。これから行政制度設計して救済しようったって、どうせ40~50点程度の、到底皆が満足できるようなものにはならない。それでもやった方がいいのだろうけれど。「社会が悪い」「日本が悪い」みたいな話は詮無いな。だってお前らの集合体が「社会」であり「日本」なんじゃん。「社会が悪い」「日本が悪い」って結局「お前が悪い」「俺が悪い」って意味にしかならないんじゃないの。なんであれ言う人って自分とは無関係に「社会」「日本」を叩ける感じなんだろ?
 
 結局現状、個別案件は当事者およびその周辺で救済できないならきっとどうにもならないんだろう。残酷なようだが俺は世の中そんなもんだと思っている。日本の行政規模はなんせ小さすぎるし、どうせクソなんだから。しょっちゅう「死ね」とか言われてるヤツなんだぞ。ヤツは正義のウルトラマンじゃない。俺らだ。お前らだ。

ADHDについて思うところ

 「どこぞの医者が決めた特定のパラメータに限定して二次元的に標準偏差を取ってざっくり下位側5%の辺りに線を引いてみた」程度のものだと思っている。人間の性質ってのは複合的で三次元的なものなので、「人間の本質」ってことではたいして意味のない括りだと思うが、しかし、効用Maximizeな世間に適合しづらい人を見極めることが出来そうなので、ちゃんと理解すれば役に立つ分類かな、とは思う。それ以上の意味は見いだせない。だって意味ねえし。 っていうかそれ以上に意味づけしようとかいうの、やめた方がいいぜ。本物の病気になるぞ。後天的な心の病気に。


 「ADHD」なんて用語は40才くらいまでは知らなかった。20代の頃は、なんで俺の「普通」は他の人とズレているのかって随分と悩んで、心理学やら精神医学なんかを散々調べたりしたけれど、結局よく分からず。アスペルガーはイマイチしっくり来ないし、程度の軽いアスペなんだろうか、などと思っていた。とりあえず一つの要素として「短期記憶障害」と自分で勝手に呼んでた。まあそれはいいや。

ブログ記事にあまり感情移入しないように!

 ADHDを公言している人、はてなで有名な人だとかんどーさんとか、最近アッピール中の借金玉さんとか。他にも結構いるようだ。増田でも見かけるし。当事者が読むと「そうそう!」「あるある!」「お前は俺か!?」「俺が書いたのかと思った!」など、ADHDあるある!の連続だと思う。自分と全く同じ生きづらさを抱えているんだ、自分だけじゃなかったんだ、と親近感、共感を覚える人は多いだろう。とても他人とは思えず、感情移入してしまいやすいと思う。

 例えば借金の人もかんどーさんも客観的には、全くウチとは異なる、何の共通点も無いブログキャラクタに見えるでしょうけれど。かんどーさんのADHD記事とか「完全に俺のこと書いてるぞ!」って感じ。


 これね。あんまり感情移入しないように気をつけましょう。あくまで「ある特定パラメータ限定で下位5%仲間」です。現世では不利なので、知恵の借り合い助け合い、互助会的なものはとても良いと思うんだけど。あんまり自分と同一視するのは良くない。他人は他人。「同じ〇〇県民」とか「バイク仲間」とか「左利き」とかと同程度くらいの親近感が適当だと思う。やっぱりブログのキャラクタを見ての通り、借金の人もかんどーさんも青2の人もtyoshikiさんも俺も、明らかに別の人だ。

 キャラクタ分類なら、ユングの性格分析とか竜頭万里子さんのエニアグラム分類とか岡田斗志夫さんの欲求タイプ分類とかの方が俺は好きだし、この括りの方が親近感あるある。


究極のエニアグラム性格学―人の性格って、おもしろい!

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脱線するけれど、エニアグラムは「表出する行動や感情分析」としてはとても役立つ、けれど心の内面については当てにならない気がする。人によって言ってること全然違うし。竜頭さんのは良いと思うけど。


 ADHDの人は、あんま具体的にブログに書いてもしょうがないと思う。「あるある!」で凄く共感はするんだけれども。マヌケっぷりをあんまり披露してもな。エンタメネタとして一時的には面白そうだが、結局どうやら誰が書いても同じだなって気がした。表面に出てくる事象、困難はだいたいみんな同じなんだろう。出かける直前になってケータイがない!財布がない!などと騒ぎ出し、結局は駅まで走っていく羽目になるだとか、電車に乗ってから老眼鏡を忘れたことに気付いたとか。こんなの書いてもしょうがないぞ。ガキの頃なんか、あんまりにも頻繁に消しゴム無くすもんだから親が頭に来て、ついには筆入れと消しゴムをタコ糸で結ばれてしまったとか。定規とか分度器とかコンパスとか何セット買わせたんだ?

とかそういうの、もういらないだろ。


 なので、ADHDで生きづらさを感じている人、処方箋を知りたい人は、個人ブログなんぞよりも適切な本を探すべし。 Amazonとかの書評を見た方がいい。個人ブログはADHD無関係に「この人好き」とか「面白い」とかで読みましょう。

評価ブレまくり

 借金の人が、「僕はジョブズではなかった」とか記事を書いてたけど。なんか大げさではあるが、あの感覚は大事と思う。みんながみんな、そうじゃないのかもしれないけれど。


 例えば自身の能力評価が「10」とする。でもそれはあくまで状態が良いときの話。ダメなときは「1」とか「2」しか出来ない。長期的総合力では「5~6」が関の山だ。その程度であることを忘れないように。そもそも自分は「10」も出来ないのだ。買い被りだ。過大評価だ。これ、逆もまたしかりで、どうせ自分は「1」とか「2」しかできない、って思ってしまうのも過小評価。そんな訳ないのよ。


 これは本人だけでなく、周囲の評価もそうなってしまうところがなおいっそうつらいんだけどね。ある人は「〇〇さん凄い、10もできるんだ!」となるし、またある人は「コイツ全然ダメ、期待外れ」となる。またある時は「完璧に出来たぜ!」ってつもりだったのに、しょうもない見落としやミスがあってボロクソ言われてしまったり。いやそこまで酷くなかったと思うんだけど。

 同じ職場で長く仕事してると、同じ人でもそういう両極端な評価になってびっくりされる。コイツ全然ダメ!って思ってたけど、なんだ結局やればできるんじゃんスゲーじゃん!になったり。なんだよ出来てんのかと思ったら全然ダメじゃね-か!どうすんだよ!!になったり。

最終的に帳尻を合わせればなんとかなる、というたぐいの仕事、そういうのが許される職場でないと色々と難しいのは確かだな。


 本人的にも、状態の良いときの「出来てる」イメージがあるので、ダメな時の歯痒さが半端ない。自分にものすごく腹が立つ。なんでこうも出来ないんだ!?なんでこんなに馬鹿なんだ!?とか思いやすいんじゃないかな。「出来る状態」が分かっているだけに、「ダメな状態」が許せなくなるような。俺はそういうことよくある。


 マネジメントクラスの人には、その辺ぜひとも分かって欲しいとは思うのだけれど。まあ無理だな。なぜって、ADHDが「分かって欲しい」と思った時には、残念ながらマネージャーは「お前この仕事向いてねーわ」「この業界じゃやっていけねーよ」「なんでここにいんの?」とか言ってるのよ。そんなもんだ仕事って。悲しいけれど。

こちとらそんな業界で20年やってるのだよ。
いやまあ、業界は関係ないか。


 これ結局、自分の頑張れる範囲でしがみついて必死でやるしかない、最終的には水準以上の結果を死に物狂いで出していくしかない。そうやって信頼を勝ち取っていくしかない。すると「まあ波はあるけど最終的にはキッチリ仕上げてくるヤツだ」といった辺りでなんとかなった、というのが俺の結論。上司も客先もそんな感じだ。仕事や職場を自分のピーク能力基準で選んではいけない、のが肝要ではあるな。

まとめ

 まーそんなわけで、なんとか生きている。歳くってるからかもしれんが、結果的な生存バイアス、勝者バイアスかも知らんが、基本的には「大人のADHD」について、行政による「社会的な取り組み」などいっさい必要ないと思っている。特別な配慮など無用だ。むしろそんな扱いは嫌だ。人としてADHDの括りに意味はないと思うからだ。でも「マネジメントクラスの人」には理解して欲しいところではあるので、職場上司は諦めるとしても、学校の先生と親への啓蒙は必須だろう。「聲の形」の時に書いたけど、小三の時、暴力教師に目の敵にされたことがある、って話、要するにそういうことなんだよな。症状にもよるし「地の性格」との組み合わせにもよるんだろうが、ADHDのガキは本人は普通にしているつもりでも、とんでもない馬鹿ガキ、しょうもないクソガキ、とか思われやすいようだ。今にして思えば年齢一ケタの頃が一番つらかったように思う。っていうか、そこで色々と慣れてしまったんかな。


マンガでわかる大人のADHDコントロールガイド

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※ 大人のADHD対策はこれだけで充分だと思うぞ