メタクソのクソミソ

 先般「日本」を擁護する記事を書きました。その記事で私は「日本死ね」というのは、親に向かって「死ね」という感じ、と書いていました。実はこれ書きながら思い出していたのが佐藤健志さんのこの本。2年前に読んだやつ。


震災ゴジラ! 戦後は破局へと回帰する

震災ゴジラ! 戦後は破局へと回帰する


これには、現代の「日本」では「親」が「子」に「死ね」と言われても仕方のない状況なのである、という事が書かれています。アマゾン書評では評価が割れていますが、評価の高くない人でも「話としては面白かった」とありますので。面白いのは確かです。
 話の展開が強引だとかご都合主義、結論ありき、といったような批判があります。私としては、それは重要ではない気がします。そういったところも含めて考えたり楽しんだりするのがこの本の読み方かと。


物語分析が好きな人にはオススメです。

その佐藤健志さんの新刊が発売されました。



 久々に紙の本を買ってしまった。今のところ読んだのは三分の二くらい。相変わらず面白い。最近私が考えていたこと、記事にしたいと思っていたこと、でも言語化できていなかった、理解できていなかった事柄が見事に表現されている!これはスゴイ。


キッチュ」による全体主義、というのがテーマ。
キッチュとは - はてなキーワード

日本のいわゆる「サヨク」や「ウヨク」を「キッチュ」であるとして分析しています。


 日本の「キッチュ」勢力の分析に出てきた「ウソ」&「クソ」の話が面白かったのでちょっとご紹介。日本の「キッチュ」には3つの「ウソ」があるという。なんだこれはてなブログの話?最近見た、意識高い系とかの話にもまんま当て嵌まる気がする。


第一のウソ
明らかに無理があるタテマエを「崇高にして達成可能な、美しい理想」のごとく位置づける
 
第二のウソ
自分たちの理想を否定するものを「排除すべき汚物」と決めつけたり、ひいては存在自体を認めなかったりする
みんなでウソ(またはキレイゴト)を信じれば、世の中からクソを抹消できる、と構える
 
第三のウソ
かくして彼らは、クソの存在を否認しているだけなのに、そのことまでをも否認する(=クソを否定できているかのように振る舞いつづける)

(P86~87より抜粋)


だそうですよ。
「クソ」を無意識レベルで否認するための論理の飛躍や詭弁のことを「クソの互換性原則」って言葉で表現していて、これは秀逸。「ブログデザインが悪くて読みづらい」とか、議論本筋とは無関係な話をしてしまう、みたいな。内容がクソだからデザインもクソ。


 批評・批判・非難・悪口など、全てネガコメだのアンチだのと一緒くたにし「悪しきもの」すなわち「クソ」として排除しようとしてしまう。私は豆腐メンタルのチキン野郎でして、名指しは差し控えまして仮にAさんとしますが、そのAさんのブログ、時折クソが出てきて「クソをクソと言って何が悪い。クソは必ず排泄されるし絶対に存在するし、適切に処理されるのが正しい。キレイゴトばっか言ってんじゃねえよ、正しいクソの始末ってもんがあるだろ」的な趣旨の記事を書かれたりしているようですが、「大人げない」「クソなど存在しない」「クソを出す奴自身がクソ」「クソは黙れ」とか、反論ブコメやら反論記事がクソな感じ。手斧というよりブーメラン。全く議論をしようとしない。まあ「クソ」の話は論外だからな。議論の余地はない。「クソ」など存在しないのだから。彼らの中ではな。


 彼らは「なぜ批判をするのか。君たちが批判なんかするから争いが絶えないのだ。平和主義者な俺を批判するな。俺の友達を批判するな」と言っている。あなた方が「クソ」を自体を封殺しているから争いになるんだと思うのだが。

「クソを出すな。クソをするな」と言っていることに気付いているのだろうか。
そんな感じ。だがしかし「俺の嫁」はクソをしないがな

本の紹介に戻ります

 徹底的にメタ論です。メタ論好きにはオススメ。「自分の人格」と「自分の書いた文章」をある程度切り離して考えることができない人には、辛くて気持ち悪くなってしまってとてもじゃないけど読めないかもしれません。アイデンティティ崩壊の危機に直面します。或いはまあ、意味が分からないのですぐに飽きちゃって読めないかも。


佐藤健志さんの本は大概そうなんですけど、ここまでメタメタな本を私は知らない。


愛国のパラドックス: 「右か左か」の時代は終わった

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