読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

哲学とは何だろうか

泡沫(うたかた)(@zeromoon0)さんがこんな記事を書いてる。


nogreenplace.hateblo.jp


以下、最後の段を引用。

 まぁ「個人の意見にだってある程度責任必要だろ何書いたって批判はされないなんてそれこそ『じゃあ俺もお前のこと悪く言うけど個人の意見だから批判すんなよ』という悪質ヒャッハーの思うつぼじゃないのかねぇ」っていうことなんですが、なんかよくわからなくなってきたので誰か代わりに考えてください。それでも多分すっきりした答えは出ないのだろう。もういいや。


……「誰か代わりに考えて下さい」とあるので……

僭越ながら私めが、続きを書いてみましょう。

ますますモヤモヤが深まること請け合い。


私の経験した話。昨年10月にリアル議論でうんざりしたという記事を書いたのですが。


fnoithunder.hatenablog.com


この時、最後に相手に言われたのがこの話に似ています。具体的には、


「社会科学や人文科学ってのは、それぞれに専門的な考え方、学説があり、答えが一つであるはずがないのだ。それぞれを尊重すべきなのに、お前はいちいち「正しい」とか「間違ってる」とか、お前限定の価値判断基準を持ち込むとか、絶対におかしい。お前こそが根本的に間違っている」


というもの。皆さんはこれ、どう思いますか。
なんとなく正論っぽくも聞こえますかね。


 これは私恒例の「浜田や黒田のリフレ理論は〇〇なのでおかしい」という批判に対する最終的な回答です。これではリフレ理論に限らず学者学説に限らず、個人だろうが団体だろうがとにかく一切批判するな、全てを認めろって話になっちゃってます。本当にそれでいいのか?これを言ったのはいわゆる「左派」系の人ですが、また別の議論では、私の批判に対して「右派」系の人にも結局は「そんなの人それぞれだ」と言われたことがあります。

いずれも信頼、尊敬している人物に言われたということと、適当な反論も思い浮かばなかったので、その後も、これはいったいどういう事か、俺がおかしいのだろうかと、散々考えて込んでしまいました。

 
 これってまず、上で紹介した記事にある通りで、「何でもあり」になってしまって収拾がつかないじゃないか、という疑問が湧きます。


具体例を挙げると、例のミニマリスト論争の記事で、私はとれいCさんについて、
「単なるアンチ行動だけではそのうち行き詰まるんじゃないの?」と書いたのですが、
これも「そんなお前個人の価値判断をいちいち表明するな!皆を尊重すべき!ということになってしまうよね。

だったら「あざなわさんの言うことも尤もだし、とれいCさんの話だってその通りかもねえ、うんうん」と書けばいいのか?


いやいや、そもそも、
 
とれいCさん「普通に働いている人はおかしい」
あざなわさん「いやお前らもどうかと思うぞ」
 
そんなの人それぞれなんだから、いちいちお前らが批判するな!判断するな!皆を尊重しろ!みたいなことになるじゃないか。

一切の論説は、無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァァァァァァァーーーーー!!


とまあ、これでは「何でもあり」のようでもあり「何でもダメ」のようでもあり。矛盾に満ちていて全くお話にならない。「人それぞれ」とか言ってる奴はアホだな。


いやしかし、奴がそんなアホであるはずがない。

言ってる奴がアホではなかった場合、本来の意図は別にあります。

これは一体どういう事か?

 本当は、これは「外からゴチャゴチャうるせえよ」案件。本心では、

「ゴチャゴチャうるせえよ、何も分かっていないお前ごときが俺の信ずるもの(人・哲学・思想・宗教)を語るんじゃねえよ、もうこの話は終わりだ貴様は二度と俺の前でこの話をするんじゃねえぞいいから黙ってろ」

と言いたいのを、さも一般論かの如く装ったのが「人それぞれ」です。


 これ実質的には、こちらの主張に対してまともに反論できなかったがゆえの、苦し紛れの敗北宣言とみなしていいです。ネットだと、「こんな基地外は相手にするだけ時間の無駄なので」「コイツは共産党なので」とか、なぜか小馬鹿にしつつ勝ち誇ってこう言ってくるパターンもよくあるので、表面的には負けたようにも見えないし、話は脱線して益々こじれていきます。これは論のすり替えによる敗北回避、という詭弁術の一つに過ぎない。


 議論の目的とは本来は勝ち負けや論破ではないし、アウフヘーベンに繋がらなかったのは残念なことです。こちらの言い方にも問題があったかもしれません。これはお互いの信頼度や度量も関係するし。これを乗り越えて有意義な議論をするには、ってことが大事になりますね。


 こういう行き違いがなぜ、いつ起こるのか、と言えば、その人の深層心理、哲学・思想の「根源的な何か」に抵触した段階で、なおかつ当人がそれを認識できなかった場合に(殆ど全ての場合ですが)、無意識レベルで不快感や不安感が発生・増大してしまうので、キレ出したりして不毛な論争へと移行します。


 根源的な深層心理というのは、本人がよく認識できていない、言語化できていないことも多い。ここに気付けないと、同質の人以外とは議論ができない。ある程度言語化できている人でも、他者との摺り合わせはなかなかに難しいですね。でも頑張れば、やってできないことはない、のかなあ。

 とれいCさんの「おふざけ」論争は、淡々と冷静に分析してる人、ネタとしておもしろおかしくやってる人、Love & Peaceな人、とにかくブチ切れてる人、色々いましたが、この辺の問題だと思いますよ。


 余談ですけど、とれいCさんあの状況下で最終的にはこの辺が認識できてたみたいなので、おおすごい、と思いつつ、あざなわさんの優しさには感服せざるを得ない。



以下、根源的な哲学の話。

逆に考えるんだ!

ジョースター卿の教えに従い、ちょっと逆に考えてみましょう!


相手ではなく、あなた自身が、
「めんどくせえな、そんなの人それぞれだし、てめえの知ったことか」
とか思ったことはありませんか?


或いはこんなのはどうでしょう。
うわコイツなんか変なこと言ってる、とか思った時。


f:id:fnoithunder:20150803205338p:plain


みたいなの。ありませんか?



で、思い出したのがこの話。

yama-aki1025.hatenablog.com


 いや別に真山さんに対してどうこうという訳でもないですごめんなさい。引用の引用みたいになってますが……


この件で姫姉様かっこいいぜ!と記事を書いてる人が他にも何人かいたのですが、これ読んでも私は全くそうは思えなかったので、なんか引っ掛かりを感じていました。


バカ正直に本音を申し上げるなら、
 
思えよ。とか言われてもな。 思わねえよ。としか言いようがない」
「何だかよくわからんが大変そうだなこの人」
 
じゃあそれを記事やブコメで表明する?

いや、しませんでしたよ。たいした話じゃないし。「人それぞれ」でいいだろ。


或いは、例えばリアルで知人にこう言われて、お前はどうだ?と聞かれたとしたら、
「まあ人それぞれだし、いいんじゃないの……(俺とは違うけど)」
とか言って逃げるでしょうね。


下手に議論すると話がこじれそうだし。私の話がどの程度通じる相手なのか、よくよく考えながら話すことになるでしょう。ちなみに、ごく親しい人にこういう考えの人はいない気がする。


つまり結局、私の方が「人それぞれ」と表明した場合でも、「その件は議論したくない」というだけの意味しかなく、それは上の方の例と同じですね。


せっかくなのでこの案件、なぜかっこいいと思わないか、具体的にやってみましょうか。「哲学」という面では良テキストなので。


 私が何とも思わないのは、私が真山さんが言うような強さを持った人だから、ではありません。真山さんの言う強い人とは、恐らくいばやの人とかが該当するのでしょう。私自身は全く弱い人間です。じゃあなぜ何とも思わないのか。


これは主に哲学の問題。(私の考える承認欲求の話はまた別途やります)


 日本のいわゆる現代の「哲学」は大雑把に言って二系統、西洋哲学と東洋哲学。余りに大雑把過ぎで申し訳ないのですが、まともにやると私の手には負えないので、超適当にやります。はてなブログで例えると、おそらく西洋哲学なのがクソログ師匠で、東洋哲学なのがうたかた師匠です。

 私自身は東側、神道哲学的でしょうか。ほぼ「生まれつき」のレベルだと思います。と言っても西洋哲学にはとても興味があるので、本を読みあさったりしています。先人達は本当に色々なことを教えてくれます。ああ、ところでうちのブログは哲学的ではありませんが、基本的には西側を扱っています。


 哲学ってなんだ?と言えば、自分とは何なのか、という永遠の問いであって、それは自分と世界、宇宙・時空との関係とか繋がりって何なのか、みたいな話。ここで言う宇宙とは、物理学とか天文学で言う物理的な「宇宙」とはちょっと違います。悠久の「時」の流れとか、「空間」の無限の広がりとか。


 この「時空」と「自分」の関係について考えるとき、まずは「時空」側に立ってみるのが東洋哲学、「自分」側から出発するのが西洋哲学の基本です。この時空の無限の広がりを「虚無」として認識するのは両哲学とも(多分)同じで、これを意識できるかどうか、がカギになるのでしょう。


 で、まあ、つまりっすね、

 姫姉様の話には哲学がないんです。自分発、という点では西洋哲学っぽいのですが、「空」の広がりはせいぜい半径数m、「時」は今この瞬間と、記憶にあるご自身の経験くらいのもので、自分のエリアからは全く出ていない。ミクロ的には当然そうなるのですが、それだけの思想でやっていくのはとても辛く苦しいものです。ものすごい些末なことに囚われている、ことに気付いていない、ように見えてしまうんです。とてもじゃないが、それだけで生きていくことなんてできない。俺のような弱っちい人間にはとうてい無理であると。


 こういうマクロ論とかメタ論とか、(直接的には)何の役にも立たないし意味分からんし、斜に構えた上から目線みたいで嫌いだとか興味ないって人は結構多い気がするけど、それなりに人生楽になるんじゃなかろうか、と思っています。


 あとは、私自身は人生半ば過ぎて、自身の「効用限界」がもう見えてしまった、というのも無関係ではありません。ここまでくると具体的に死を意識したり覚悟したりするようになります。この、万人に訪れる不条理を自分の中でどう処理していくか、の方がテーマとしては重くなってくる。「生きざま」よりも「死にざま」になってきます。(本質的には全く同じ意味のはずですけどね)これは私がブログを続けている理由の一つにもなっています。



 ……しかし最近は、私的空間であるはずの半径1m以内に、インターネットって無限の虚無空間が出現してしまったから、すげーやっかいな感じになってるね。


 うーん、この話ちゃんとやろうとするとプラトンの哲学が必要な気がする。もう私の手に負えない感じ。話を続けるのが無理になってきたので、やっぱりこれはもう「人それぞれ」で済ませよう。ごめんなさい。


誰か代わりに考えて、続きを書いて下さい。





……多分もう続きはありませんので、書籍に丸投げしましょう。主に西洋哲学の解説書です。


いったいなんでこんな事になってしまったのか、岡田斗司夫さんが「評価経済社会」で非常にうまく説明してくれているよ。スッキリしたい人向け。


評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている


岡田は好かん、という人は佐伯啓思さんがおすすめ。


20世紀とは何だったのか (PHP文庫)

20世紀とは何だったのか (PHP文庫)


 京都大学の教授だった人で、2015年3月に定年退官。この本は京都大学の一般教養の講義を本に起こしたものです。京大の子は二十歳までにこれやるのか。すげえな。凡人の私が読むのは本当に大変でした。いやしかし面白いです。モヤモヤした感覚がますますどんどん拡大していきます。スッキリしたい人には向きません。モヤモヤが好きな人であれば面白いのかもしれませんが……


いずれプラトンの「真善美」の話はやろうと思います。