カットスリック (第9回 短編小説の集い 参加作品)

 先週までは、書いてみたいとは思うものの、いったいどうしたら短編小説など書けるのだろうか、と思っていたのに。書いてしまいました。初参加でございます。よろしくお願いします。

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カットスリック

 ガレージで待ち構えるピットクルーの元へ、けたたましいエンジン音と共に新堂の駆るレーシングバイクが滑り込んでくる。バイクが停止すると即座にリアスタンドが掛けられた。新堂はバイクから降り、へルメットを脱いだ。クルー達は心配げに彼の顔をのぞき込む。固唾をのんで新堂の言葉を待つ。

 新堂は何も言わずにバイクから離れ、険しい面持ちでガレージからピットロードの方へと歩く。シャッターの手前で足を止めると、しばしの間、小雨を降りしきらせる天を見つめていた。
「どうします?」
チーフメカニックは堪りかねたようで、新堂に声を掛けた。彼の決断を待ちきれなくなったらしい。決勝レースで使用する、タイヤの選択をどうするか問うているのだ。
 
 現時点でピット前は小雨が降っている。ここからコースの東方向、第一コーナー付近にかけては完全に路面はウェット状態で、水たまりさえ出来ている。レインタイヤでなければまともに走れないだろう。しかし、ここからは見えないコースの西端、スプーンカーブの方では完全に雨は上がっており、路面は乾き始めている。このまま雨が降らないなら、スリックタイヤでも走れそうに思えた。レインタイヤではむしろ足枷になってしまうだろう。今しがたコースを一周してきた感触ではそんなところだ。非常に悩ましいところである。
 
 ここ鈴鹿サーキットではよくあることだ。なんせコースの端から端まで、直線距離で二キロ以上もあるのだ。走り慣れたコースではあるが、こればっかりはどうにもならない。
もう間もなく決勝スタートだというのに。十五分後にはピットから出て、グリッドに並ばなければならない。早く決断しなければ。

「天気は回復傾向らしいわよ」
いつの間にか新堂の傍らには理恵が来ていた。
「全くやんなっちゃうよね。ホント、久々の世界GP出場だっていうのに」

 そう、新堂にとっては二年振りの世界GP出場になる。かつて新堂は世界GPにフル参戦していた時期もあったのだが。そう、二年前までは。しかし、今では    


 ピットロードを小走りに、こちらに向かってくるライダーがいる。新堂と同じ、ホンダワークスのレーシングスーツに身を包んだ小柄な男。若干二十三歳、ホンダの若きエースライダー、加藤大輔である。新堂よりもちょうど一回り若い。理恵が舌打ちするのが聞こえた。

彼は二年前から世界GPにフル参戦している。つまり彼こそが二年前、新堂のポジション、ホンダの世界GPライダーの座を奪った男だ。彼は今年、何度かの優勝を重ね、世界チャンピオンを狙えるポジションにいる。彼にとってこの鈴鹿のレースは、世界GP全十六戦中の十三戦目であり、長いレースシーズンのうちの一つに過ぎない。対して新堂はこの鈴鹿の一戦のみ、スポット参戦するチャンスが与えられている。
加藤と新堂、全く同じカラーのレーシングスーツにマシンではあるが、立場は全く違う。加藤は世界GPライダー、新堂は全日本のライダー。いわば一軍と二軍である。


「なあに大輔くん。偵察に来たのかしら」
理恵がトゲのある声音で尋ねる。新堂はそれを打ち消すように加藤に声を掛けた。
「よう大輔。君はどうするんだい?」
「うーん、俺は前後ともインターミディエイトかなあ。悩ましいところッスよねー。新堂さんは?カットスリック?」
インターミディエイトとは言葉通り、雨でも晴れでもそこそこグリップする、中間的なタイヤのことだ。カットスリックとは、本来はドライ路面専用のスリックタイヤに水切り用の溝を取りあえず付けてみた、というようなものである。
「俺は……そうだな、リアの方はカットスリックにしようと思ってる」
「やっぱそうッスか!新堂さんはそう来ると思いましたよ。ちなみにッスね……」
加藤は他のライダーの情報などについてもう二言ほど言葉を交わすと、足早に自分のピットへと戻っていった。あまり時間がない。新堂の言葉に従い、ピットでは慌ただしくタイヤ交換作業が始まった。


「アイツには絶対負けないでよね」
強い調子で理恵が言う。
「そんなこと言われてもなあ。奴はホンダのエース、しかも世界ランク二位なんだぞ」
「そんなの、ちょっと運が良かっただけよ。あなたはちょっと運が悪かっただけなんだから。私には分かるもん」
「運も実力のうちさ」
新堂は淡々と言う。
「いつからそんな弱気になっちゃったのよ……」
理恵はうつむき、つまらなそうに言った。
「遠慮する気はない。まあ、やってみるさ!」
そう言って新堂は、理恵の肩をぽんぽんと叩いた。


 新堂はもう三十五歳だ。勢いだけで突っ走れた若い頃とは違う。確かに失ってしまったものもある。しかし、決して弱気になったわけではないのだ。辛いこと、悔しいこと、歯痒いことを幾度も経験した。酷いケガやキツいリハビリ。幾多の試練を乗り越えてきた。若い時代には戻れなくとも、今だからこそできる走りだってあるはずなのだ。
新堂はタイヤ交換を終えたマシンに跨ると、勢いよくピットを飛び出していった。


 まずはサイティングラップ。レース前の最後のコース確認のため全マシンが一周し、それを終えると、ひとまずグリッドに整列する。ここで一旦エンジンが止められる。レースはまだもう少し先。まずはスタート前のささやかなセレモニーがあるのだ。小雨が降りしきる中、艶やかなキャンギャル達がライダーの傍らで思い思いに傘を掲げる。ポールポジションからライダー紹介が始まっている。新堂は三列目、十番グリッドだ。新堂の傍らにはやはり理恵が立つ。
「もー、なんで今さらあたしがこんなことを!」
言葉とは裏腹にちょっと嬉しそうだ。ショートパンツから伸びる艶めかしい長い足。不自然なまでに短い丈の、ノースリーブのタートルトップスからは、引き締まったウエストとかわいらしいおへそがのぞく。そしてドリンクメーカーのロゴがデカデカと胸元に。
「似合ってるぞ、へそ出し」
「バカ」
年甲斐もなく、理恵は急にもじもじし出して頬を赤らめる。こんな姿を見るのは本当に久しぶりだ。
「うわー、今さら照れるなよ母ちゃん」ついからかってしまう。
理恵だって今日の舞台に合わせ、必死でコンディションを整えてきたに違いないのだ。
「いくつになってもここに立ってもらわないとな。なんせ君は勝利の女神なんだから」


 ずっと前から、いつも理恵は新堂の傍らにいてくれた。初めて出会ったのもここ鈴鹿だった。あれは十二年も前。全日本選手権でのことだった。そして七年前、初めて世界GPに出場したのも鈴鹿だった。今日と同じスポット参戦で、やはり彼女もここに立っていた。結果は世界GP初出場で初優勝。それを契機に、新堂は念願であった世界GPフル参戦への切符を手に入れた。あの頃は本当に勢いがあった。それだけで突っ走っていた。その勢いで、レース後には理恵にプロポーズしていたのだった。その結果がこれである。
「何遠い目してんのよ。しっかりね!」
今日は勝てる予感がした。


 ウォームアップラップ開始一分前を示すボードが掲げられた。キャンギャル達がピットへと引き上げていく。エンジンには再び火が入り、レース前の静寂はいよいよ切り裂かれる。しかしまだスタートではない。はやる気持ちを抑え、各ライダー達は次々にウォームアップラップへと走り出していった。


 全マシンが再度コースを一周、ウォームアップラップを終え、再びグリッドに整列する。そしてレッドシグナルが点灯し、スタート体制に入った。いよいよ決勝レースの火蓋が切って落とされる。それはさながら張り詰めた弦のよう。サーキットは耳をつんざく凄まじいエンジンの爆音に包まれ、それは鈴鹿の山々へとこだましていく。
 そしてシグナルがグリーンへと変わると、四十台のマシンは放たれた矢の如く、我先へと第一コーナーへ飛び込んでいった。


 一周目を終えて新堂は二十位辺り、真ん中辺りに埋もれていた。コース上はまだ濡れている箇所が多く、カットスリックタイヤでは思い切った走りが出来ない。とは言うものの、コース上で雨が降っているところはもはや無かった。雨は完全に上がっている。

そしてその後は新堂の目論見通り、コースは徐々に乾いていった。元々サーキットは水はけの良い構造になっているのだ。レース中盤にさしかかる頃には新堂のペースも徐々に上がっていった。にわかに新堂の走りは注目を集め始めた。その追い上げのペースはどんどん上がっていき、次々とライバル達を抜き去ってゆく。神が懸かったようだった。まるで鬼神の如き走りであった。

ベテランライダー新堂の熱い走りに場内は沸いた。レース実況のDJが声を張り上げ、新堂の凄まじい追い上げを絶賛し、復活を称えた。誰もが新堂に注目していた。いったいどこまで追い上げられるのか、果たしてトップに立つことが出来るのか。サーキット全体が、まるでこのレースの、新堂の行く末を、固唾をのんで見守っているかのようだった。


 レースはいよいよ終盤にさしかかり、残り三周となるころ、ついに新堂は二位に立った。前を走るのはもはや加藤だけだ。その差は二秒。コースの前半はまだ濡れている箇所が残っていて、加藤の方が速い。しかし後半は既に路面の大部分が乾いている。高速コーナーも多く、スピードも高い。こちらは新堂の方が有利だ。ラップタイムも新堂が勝っている。ラストラップまでには確実に追いつける。
 バックストレートを駆け上がる。素晴らしくスピードが乗る。そして超高速コーナーへとさしかかっていく。捕らえた、新堂がそう思った瞬間だった。
彼のマシンのリアタイヤが大きくスピンした。リアタイヤが空転しエンジン回転が跳ね上がる。タイヤがアウトへと逃げていき、バイクがイン側へ倒れ込みそうになる。しまった、開けすぎたか。暴れようとするマシンを押さえ込み、ハンドルにカウンターステアを当て、なんとか立て直しを試みる。かろうじてマシンは倒れなかった。しかしスライドは収まらない。コーナーの立ち上がりラインを大きく外れ、ついにコースアウトしてしまったその瞬間、新堂は思い切り地面に叩きつけられ、マシンから放り出された。
 コントロールを失ったマシンが派手に跳ね回った。そして新堂自身も、時速二〇〇キロものスピードで、まるで濁流に弄ばれる木の葉の如く舞い転がる。為す術なく、ただ虚しくもひたすら、早く止まってくれと願う他なかった。空と地面、回転し続ける視界に、タイヤバリアーが迫ってくるのが見えた。



 新堂が目覚めたのは病院のベッドの上だった。体を起こそうと思った途端、全身に痛みが走った。仕方なく横になったままで、ゆっくりと手や足を動かしてみる。確かな感触がある。全身が痛むものの、どうやら致命傷は負っていないようだった。

ベッドの右手あたりに何か重みがあるのを感じた。見ると理恵が突っ伏していた。その目元は涙に濡れていた。泣き疲れて眠ってしまったようだった。時速二百キロでのクラッシュ。新堂がこの世からいなくなってしまうことを予感したかも知れない。新堂自身も恐怖を感じていた。
 理恵の傍らにはベビーカーがあって、眠っている赤ん坊、二歳になったばかりの息子の顔がのぞいていた。


「あらやだ、あたし眠っちゃった」理恵は目を覚ますと慌てて起き上がった。
「マトモに体が動かないでしょ。全身あちこちアザだらけ、肋骨も何本かヒビ入ってるってお医者様が。でも骨折とか致命傷とかはないってさ。よかったね」
ケガの状況をかいつまんで説明してくれる。
「惜しかったね」
 努めて明るく理恵は言い、薄く微笑んだ。新堂が眠っている間、泣いていたはずなのに。レーサーの妻として気丈に振る舞おうとする理恵の姿は、いじらしくて儚げで、たまらなく愛おしく思えた。

 窓から見える空はすっかり晴れ上がっていた。鈴鹿の山々は夕日に赤く染まり、部屋には西日が差し込む。どこか遠くの方からカラスの鳴く声が聞こえた。


<了>

(4913字)




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※ 参考:小説の舞台はこちら http://u111u.info/m690


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