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誰が言ったか、何を言ったか

 はてなで定期的に話題になる、「哲学系」「コモンセンス系」のネタ。最近度々見かけたので、私もチャレンジ。このテのネタ、何度か書こうと思ったことがあるのですが、話が全然まとまらず。奥が深いのか浅いのか、よく分からない。毒にも薬にもならないような話になってしまいそうです。

とりあえずやってみます

 はてなで有名なのがこれですね。
「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」が問われる時代へ - Chikirinの日記


この記事については皆様色々とご意見がおありかと存じますが。

それはいいや ☆
次回やりますので、今回はスルーでお願いしますね。


 これを字面どおりに「ちきりんさんの言うとおりだ」と捉える人も多数いる訳で、これからは本当に「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」が大事になる時代が来るのかもしれません。岡田斗司夫に言わせれば「それは抗いがたい時代の流れ」となるのでしょう。安倍首相の言葉を借りれば「これは歴史の必然です」。
まさにホセ・オルテガ・イ・ガセット言うところの『大衆社会』の到来なのかもしれないなあ。


 個人の経験や能力なんて知れてる。私は世の事象の大部分を知らない。「個別各論」の正当性や妥当性なんて全然分からない。けど、決めなければならない。氾濫する情報から選び取らねばならない。大衆社会の到来による、決断主義の必然。

 そんな時の、決断の指標は何か。


 ちきりんが言った。岡田斗司夫が言った。安倍首相が言った、オルテガが言った。橋下徹が言った、竹中平蔵が言った。中野剛志が言った。ケインズが言った。フリードマンが言った。アダム・スミスが言った。

 それを言った人は、誠実な人なのか。真理の見えている人なのか。優れた「審美眼」を持った人なのか。哲人なのか。哲人王なのか。


 「誰が言った?」というのは結局「審美眼」の話なんだと思う。人を見抜く、という審美眼。私自身はちっぽけな存在なんだから。自身の経験だけでは、ロクな判断も決断もできない。だから本を読む、動画を見る、人の話を聞く、勉強する。それらは全て「誰か」が発信したもの、提供されたもの。

 提供された「情報」自体の、の正しさとか美しさの妥当性を、個別に見極める技量が私には圧倒的に足りていない。だからこそ、発信者の人品骨柄を見抜く審美眼が必要なのではないかと。


 「誰が言ったか?」に対して「何を言ったか?」というの話の方は、個人の技量を磨く話のことではないかと思います。根っこはちょっと違う話なのではないでしょうか。「誰が言ったか?」、つまり発信者として信頼されるようになるために「何を言ったか?」の部分を鍛えていこうと。これはこれで大事ですが、ごっちゃにしてはいけない。


 審美眼を磨けず、根っこを持てず。
彷徨える個人の、肥大化してしまった「自意識」が、

 自分に都合良く、勝手に断片を切り取って、かき集めて「コイツはいいことを言った」「アイツはバカ」「私は正しい」と手斧を振りかざし跳梁跋扈するのが「大衆社会」。


なんてのがオルテガ的な悲観論。

ああ恐ろしい。