曽野綾子氏の議論その2 労働力の不足をどうする?

 一応前回の続きです。
 曾野綾子氏の話は根本的におかしい。話にならん。理由その2です。

曾野綾子氏に関する議論で抜け落ちているもの その1 - 強靱化のすすめ

歴史に学ぼう

 かつて日本には大変な労働力不足の時代がありました。その時はいったいどうだったのかを振り返り、先人達に学んでみよう、というのが今回の趣旨です。


 昭和二十年。日本の敗北により第二次世界大戦は終結。当時の日本は、この大戦により多くの国民を死なせてしまいました。日本人戦死者は230万人にものぼります。(うち台湾・朝鮮出身者が約5万人)戦地へ行ったのは当然、主に20~40代の男子ばかり。大正生まれの若者が中心。そして日本国内では、空襲などよる死者が100万人、家屋を失った者は1000万人。さらに北方領土満州ソビエト連邦に連行・抑留された者は100万人以上。このうち34万人は帰国も叶わず、極寒の地で死んだという。


 戦争で300万人以上を失い、100万人以上を捕虜に捕られてしまったのが昭和二十年代の日本です。それも二十代三十代の、働き盛りの主力男子を中心にです。そして戦時中、日本国内の労働力不足を補うための、朝鮮・台湾からの徴用者、出稼ぎ者は、その殆どが終戦後に帰国。焼け野原と化し、全てを失った敗戦六等国に残ったってロクなことはない。賢明な判断でしょう。占領軍もそのように手配したし。


 そんな状況でありながらも、戦後の復興は目覚ましいものでした。敗戦から8年後の1953年には、世界大戦前の水準にまで経済力は回復したといいます。そしてその後の高度経済成長。これらも大部分は、いわゆる最大の「人口ボーナス」のある団塊世代が世に出る前に達成されたものです。1964年の東京オリンピックの時、団塊世代はまだ中高生だったのだから。

 つまり戦後の焼け野原からの復興、そして高度経済成長とは、とんでもない人不足の状況で達成されたものなのです。そりゃまあ、帝国時代は「生めよ増やせよ」なんつって、きょうだい5、6人とか普通だったみたいだし、その名残の方達ですから、時代背景とか今とは違いますけど。

いったい人手不足とは何なのだろうか。戦前世代の人達が示してくれた道、祖父母達が残してくれた遺産が何なのかを、我々は分かっているのだろうか。


 労働力不足を補うために移民が必要だ、というのは、とりあえず「今」の豊かさを失いたくないがための逃げ道、方便に過ぎない。要は高齢予備世代のわがままです。前回書いたとおり、移民政策なんてのは、実質的に低賃金労働者の輸入。曾野綾子氏の論説をみてのとおり。貧しい国を国内特区に誘致するって話。サイタマゲットーの構築です。将来の子孫達に、それこそ壊滅的な負の遺産を残すことにもなりかねないでしょう。

対策

 人口が減ってるって事は日本人の総意として、近代・現代に疲弊して、減りたがってるってこった。今はその過程にある。ほどよく減るまでは耐えねばならん。外から人連れてきて無理に増やすのはどう考えても間違っている。

 多産多死の時代はクソガキがいっぱいいて大変だったわけだが、それが今後は老人になるってこった。まあとにかく私のような人口過多の昭和四十年世代は、労働者不足の二〇年後も三〇年後も、若年世代に負担を掛けることのないよう、七十過ぎても働くってこった。そういう気概は持っていないとね。ええ、私は持ってますよ。マジですよ。というわけで皆さん将来は、出来るだけ手の掛からない健康で優秀な老人になりましょう。クソ老人になってはいけません。
 
 皆が思いやりの心、労りの心をもつこと。同じ国に生まれ、同じ言葉を話すのも何かの縁だと思って。いがみ合わず、世代を越えて連帯の意識を持つこと。それだけいいと思うんだけどなあ。(難しいのかな)




※ サイタマゲットーって?とりあえずサイタマゲットー民はフレイヤもらっとこ? |klam_uの投稿画像