昭和維新

 前回、福澤諭吉著「学問のすゝめ」が300万部、と書いたのですが、よくよく調べてみたらこの書き方ちょっと問題ありそうなので補足します。単行本としてはそんなには出回っていないようです。

 「学問のすゝめ」は、1872~1876年にかけ、初編から第十七遍まで、延べ十七の冊子として発行されておりました。一冊が十数枚程度の小冊子で、それぞれが二十万部くらい発行されているそうです。それら合算で、延べ三百四十万冊は世に出回っているだろうと。三百万部とはそういう意味でした。写本版(海賊版みたいの)も出回っていたようで、正確なデータはよくわからないみたい。

 この小冊子を全て纏め、一冊の単行本として1880年に発刊されました。この単行本の発行部数は、どうも定かではありません。

 という訳で、当時三百四十万部も出回っていた、ということをもって「明治時代の人は10人に1人が読んでいた!」なんていう言説も聞いたことがあったのですが、これは盛りすぎのようです。冊子一冊当たりでは二十万部、プラス単行本、ということなので、明治時代に「学問のすゝめ」を読んだ人は、実質的には「100人に1人」くらい?といったところのようでした。


では、当時の文脈に於いて、という前提で。

開国か攘夷か

開国とは、ペリー提督を擁するアメリカを始めとした諸外国に屈する、ということ。

攘夷とは、祖国護持のため、諸外国を打ち払うこと。


 当時の日本には、欧米の国民国家という強力なシステム、多大な燃料を利用した産業システムに対抗する力はありませんでした。攘夷などしたくても、到底かなわない。故に開国やむなし、という流れになっていきます。開国して学問に励み、見よう見まねで何とか力を蓄える。とりあえずは開国したと見せて、いずれは攘夷を果たすのだと。当時の人はそういう理屈を考えました。「まずは開国、のち攘夷」これが開国当初の日本の姿勢です。というわけで、ひたすら欧米の仕組みや技術を取り入れ続けます。

 とりあえずの開国をし、数十年間の努力により力を蓄え続け、時代が明治から大正に変わる頃には全ての不平等条約を跳ね返し、ついに福澤先生の予言の如く、なんとか国体護持の目処を立てた日本。この時期は「明治維新」と呼ばれますね。この明治維新、よく日本の奇跡、の如く扱われます。これは日本人による自画自賛って感じで、司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」なんかが代表的です。

 しかし実のところ、本来の日本からは随分と遠くまで来てしまった。もう戻ろうにも戻れないところまで来た。いずれは攘夷を果たすはずだったのに、その目的は見失われた。結局は西洋文明に飲み込まれ、組み込まれてしまった日本。しかしそれは見よう見まねで欧米を「真似た」だけに過ぎず、決して日本が欧米になったわけではない。日本でも欧米でもない、いびつな何か。そんなものに日本はなってしまったのであろうか。


 そしてその後、1929年に始まった世界大恐慌により、世界全体が行き詰まるようになります。各国は利己主義に走り対立が表面化。日本は英米から敵視されるようになります。必死で後を追い続け、欧米に倣ってきた日本は、いよいよはしごを外されたような格好になります。


 「脱亜入欧」も叶わず、政治経済も行き詰まり。日本は再びの維新、つまり「昭和維新」の掛け声の下に改革を始めました。日本独自の世界構築のため。それは具体的には東アジアでのブロック経済圏の構築、それを拡大した大東亜共栄圏の構想へと。

そして安政時代に始まった「開国」から七十余年。「昭和維新」のさなか、日本は力尽き、滅亡しました。