ミクロとマクロの循環

 こちらの記事、ミクロとマクロの考え方について言及されています。これは私も思うところあって、コメント欄にちょっと書いてみよう、と色々と考えていたら、結構長くなってしまったので、一本の記事にしました。


ミクロとマクロは分けて論じたほうが良いと思う - パンダのぼやき


 まとめのところに「合成の誤謬」って言葉が出てきます。社会科学では、非常に重要な考え方です。社会科学をちゃんと学んだ人にとっては割と普通のことなんだろうと思いますが、私が趣味レベルで経済学を学び始めた当初、この辺がなかなか、実感としてはイマイチよく解らず、結構つまずきました。

万事がミクロ?

 日頃の我々の生活というのはミクロそのもので、マクロなんて個人が考えたところで、なにが変わるわけでもなし。それに、どうせマクロ(行政)なんて利権ばかりでロクなことやってないんだろ、なんて空気があったり。というわけで、世間ではマクロについて、つい無関心になりがちです。

 マスコミ報道でも、政治不信や無関心による選挙の投票率の低さ、を嘆くような記事や社説があったりします。でもそれは常日頃から、「公権力監視」の題目のもと、庶民目線だということで、ミクロ視点でばかり報道し、マクロに携わる人々の姿をちゃんと報道していなかったり。或いはズルした政治家や役人ばかりを取り上げて、社会正義の名の下に叩く、というのが「型」になってしまっていたり。そういったところから「どうせマクロやってる連中なんて、ろくでもないんだ」みたいな、冷めた空気が作られてしまっているんじゃないか、なんて思います。

 先週の「武田さん」の記事にも書いたのですが、特に近年は「個人」の最大限の尊重、そして「自己責任」という言葉ばかりが重視・重宝される傾向にあり、「グローバル化」なんて言いながら、実は社会はどんどんミクロ化し、バラバラになっていっているんじゃないかなあ、と感じています。


 かといって、じゃあ逆に、マクロばっかりの思考、研究だけ、をしていると、せっかく知恵を蓄えても、それこそ「象牙の塔にこもりっきりの学者」だとか「山奥から出てこない仙人」と化してしまって、現実離れした、実社会とはかけ離れた「仮想世界の政策」になってしまいかねません。

生の循環*1

 人間とは本来、非常に社会的な生き物であって、「マクロ的な視点」というのを意識することができるという、類稀なる生き物です。地球上では、唯一、なのかも知れません。
 マクロとミクロ、それぞれ思考したり実践したり、で行ったり来たり。そうやって思考や行動を循環させることで、初めて意味が出てくる。社会がよりよい方向に動いていく。
 ミクロにしろマクロにしろ、どちらか一方に停滞してしまわないこと。立ち止まって考えることは是非とも必要ですが、思考停止には陥らないことが肝要。それが人の人たるゆえん、なのではないかと。


読み返してみると、なんか、クサい感じですが……

というわけで、皆さん循環しましょう!

*1:「生の循環」とは、京都大学の藤井聡先生からご教授頂いた「政治の哲学」のお話です。興味を持たれた方は是非、藤井先生のご著書や動画などご覧頂ければ、と思います。